私は、誰の物語を生きていたのか?
この問いが、ずっと胸の奥にあった。
いい人でいようとして、
誰かの正しさに合わせて、
わかってもらいたくて、
強くあろうとして、
信じたいけど怖くて、
本当の自分がわからなくなっていた。
気づけば、
自分で決めたと思っていた選択も、
誰かの価値観で動いていた。
でも、ようやく気づいた。
誰のせいでもなかった。
ただ、ずっと「自分の声」に耳をすます時間がなかっただけだった。
沈黙を恐れ、
問いを持たず、
流されるままに生きていた時間。
そしてその間に──
たくさんの時間が、過ぎていた。
若さは、いつか終わる。
美しさは、いつか消える。
恋愛も、承認も、ルッキズムも、
すべては“終わる”という約束の上に成り立っている。
タトゥーさえ、
時間が経てば、かっこよさから痛々しさへと変わっていく。
そして、ひとつだけ。
誰もがうすうす気づいていることがある。
──“死”が、身近になってきている。
大切な人の突然の病。
若くして逝く人たちのニュース。
二人に一人ががんになる国。
それでも、
僕たちは「死」をどこか遠くの出来事として処理しながら、
今日も忙しなくスクロールしている。
だけど、本当は知っている。
問いに向き合わないままでは、自分の物語は始まらない。
そして、“自分を生きる時間”には限りがある。
迷っている時間は、
もう、そんなに残されていない。
私は、誰の物語を生きていたのか?
そして──
これから、誰として生きていくのか?